夏休みの宿題で『こころ』を読まされる高校生の多くが「百年以上前の古臭い小説を読まされるのは苦痛」と感じているかもしれませんが、夏目漱石は自分の作品は百年後にならないと理解されないと考えていたようです。というのは、漱石が作品に描き込んだ要素が当時の日本人の知識水準をはるかに超えていたためで、実際、明治・大正の読者はもちろんのこと、昭和の専門家でさえその水準には届いていませんでした(なので、今でも頓珍漢な解釈が出回っている)。漱石の小説は決して古臭いものではなく、むしろ、時代がようやく追いついた現代小説と言えるのです。

『こころ』の説明の前に、まずは三島由紀夫の『禁色』第六章の次の一節を読んでください。「彼」は主人公の南悠一、康子はその新婚の美人妻です。

櫛を買っていたことさえが、彼には無意識についた習性のはじまりだった。大学で退屈な講義をきいている最中にも、われしらず櫛で髪を調えていることが屡々しばしばある。今の大ぜいの前で云われた康子の言葉で、はじめて彼は自分が櫛を内ポケットにひそませるようになった変化に気づいたのである。犬がよその家から骨を持ちかえるように、この些細な櫛の習性こそ、彼があの社会、、、、から我家へもちかえった最初のものであることに気づいたのである。

とはいえ新婚匆々そうそう良人おっとの変化を康子がことごとく自分に結びつけて考えたのは当然である。何気ない絵の中の数十の点を結んでゆくと絵の意味を一変するような別の映像が忽然とうかびあがる遊戯があるが、たまたま最初の数点を結んでみたところで、無意味な三角や四角ができるにすぎない。康子が愚かだったということはできない。 

「櫛」は悠一が康子に隠しながら出入りしている「あの社会」を示唆する点の一つですが、これだけでは情報不足のため、康子は夫の秘密に気付きません。康子が見ている夫・悠一の表の顔と、作品中に描かれる悠一のの顔は全く別なのです。

実は、漱石作品の多くが「何気ない絵の中の数十の点を結んでゆくと絵の意味を一変するような別の映像が忽然とうかびあがる」仕掛けになっています。

例えば、『こころ』を何気なく読むと、下のリンク記事「1分間名作あらすじ」のような絵が見えますが、

作品中に散りばめられた数十の点を結んでゆくと、全く違う別の映像(ストーリー)が浮かび上がってきます。冒頭に登場する白人男性も点の一つです(このシーンを実写映像としてイメージしてください)。

[上・二]

それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。

その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。純粋の日本の浴衣を着ていた彼は、それを床几の上にすぽりと放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けていなかった。

先生が話をはぐらかしていることがポイントです。

[上・三]

私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際をもたないのに、そういう外国人と近付きになったのは不思議だといったりした。 

悠一が「あの社会」のことを康子に隠しているように、先生も妻()に「何か」「秘密」を隠しています。

[上・十九]

自分と夫の間には何の蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開けて見極めようとすると、やはり何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。

[下・五十六]

私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

『こころ』が『禁色』と異なるのは、その秘密=悲劇(先生のの顔)が、作品中では具体的に語られないことです。

[上・十二]

私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛のに、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。

私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。

先生のお嬢さんへの愛の裏面とは一体何でしょうか。

[上・十三]

「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」 

[下・十四]

もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。私はもとより人間としてを離れる事のできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私のは、全くの臭いを帯びていませんでした。 

[下・三十四]

私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。

つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。

愛の理論愛の実際

神聖性欲
神聖罪悪
異性同性

その隠された「何か」「秘密」「深い理由」を心理分析官のように解明していくのが、読者の役割です。当ブログを参考にして、百年以上も未解明のミステリー小説『こころ』の真相を読み解いてください。

soseki-kokoro.blog.jp

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