『こころ』の主題は「人間の二面性」

こころ』は「謎や矛盾が多い」「様々な読み方ができる」作品と言われていますが、これは朝日新聞連載から百年以上が経過しているにもかかわらず、未だに内容が正しく読み取られていないことの裏返しです。(→誤読例

定番のストーリー理解はこのようなものです。

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その成熟期に漱石が固執したテーマっていうのは1人の女性をめぐって2人の男性が愛情について葛藤を演ずるっていうのが漱石が固執してやまなかったテーマなんですけども、そうすると『こころ』っていうのはその最後の作品に属するだろうと思います。

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大まかなあらすじとしては、先生が卑怯な振る舞いをして女をゲットしたせいで友人Kが自殺。その罪悪感に悩み続けていた先生がいよいよ自殺するお話。

前半で延々と「先生の過去に何かがあった!」と焦らし続けるのですが、蓋を開けてみると要は女絡みの三角関係。これを「なんだ、たかが女の話か」と思ってガッカリするか、「うむ、恋愛は普遍的なテーマだな」と思うかで初読時の印象が変わってくると思います。

なお僕は「たかが女の話か、くだらない」でした。そもそも僕は他人の恋愛にあまり興味がないんだ。延々悩んだり、うじうじしたり、そんなの見てて何が楽しいんだ。

要するに「痴情のもつれ」を描いた作品というものですが、これは漱石の引っ掛けにまんまと騙された完全な誤読です。よく考えてください。近代日本文学史上最高の作家とされる夏目漱石が

夏目漱石 『心』広告文

自己のを捕へんと欲する人々に、人間のを捕へ得たる此作物を奨む。

と自負する作品が、一読しただけで理解できる「たかが女の話」のはずがないでしょう。人間の心が不可思議(uncanny)なら、「人間の心を捕へ得たる此作物」も不可思議になって当然です。

[下・五十六]

私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。

『こころ』は言わば隠し絵のような小説で、二人の語り手(私と先生)の深層心理に潜む本当の心が、表に見える言動の中に巧妙に描き込まれています。静(お嬢さん→妻)との美しい恋愛の裏に潜んでいた先生の本当の心それ深い理由)の正体が分かれば、定説とは全く異なるストーリーが見えてきます。

[上・十二]

先生は美しい恋愛に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。

私は今この悲劇について何事も語らないその悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。

読解のキーポイントは、先生の愛が精神肉体の二つに分裂していたことです。先生は、静への愛は肉体的欲求(性欲)とは対極にある精神的な愛=プラトニック・ラブだと明言しています。

[下・十四]

私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。

お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌さなかった私は、その時入らぬ心配だと思いました。

結婚後も静との肉体的接触を忌避しています(妻を遠ざける⇔自分とKがどこまでも結び付いて離れない)。

[下・五十二]

いよいよ夫として朝夕妻と顔を合せてみると、私の果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。

No sexual desire→●e●l●s● marriage→childless(ネタバレ防止のために一部伏字)

[上・八]

「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。

奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。

漱石は『文学論』(1907)でPlato式恋愛=プラトニック・ラブに言及しています。先生の恋愛観を否定する、恋愛感情と肉体的欲求は不可分という内容です。

ただ恋は神聖なりなど、説く論者には頗る妥当を欠くの感あるべし。所謂Plato式恋愛なるもの、もし世に存在すると仮定せば、これには劣情の混入しあらざること勿論なれども、同時にまた激烈の情緒として存在し能はざることも明かなり。……所謂恋情なるものより両性的本能すなわち肉感を引き去るの難きは明かなりとす。

その通り、肉欲を伴わない先生の静に対する愛情は「元のように猛烈ではな」くなりました。

[下・三十四]

若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、が宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをに対する私の嫉妬に帰していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り情の方も決して元のように猛烈ではないのです。

それでは、先生が言及していない恋愛感情の低い端(性欲/肉感/劣情/本能)は誰が対象だったのでしょうか。(→関連記事

[上・十]

私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。

[上・二]

私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。

その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。純粋の日本の浴衣を着ていた彼は、それを床几の上にすぽりと放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けていなかった。

この人間心理の表と裏(二面性)が『こころ』の主題です。人間心理の二面性(意識/無意識)は、19世紀の欧米社会に大きな影響を与えた概念であり、エドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』やオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』など、小説のテーマにもなっています。『こころ』が、その中でも特に有名なイギリスの小説を「模倣」したものであることは、構成が酷似していることからもほぼ確実です。(→関連記事

漱石が描いたのは明治・大正の日本人と日本社会ですが、その創作のベースにあったのは西洋文学(特に英文学)と心理学・社会学・哲学・美術など西洋の「知」です。(→背景知識

不幸にして余の文学論は十年計画にて企てられたる大事業の上、重に心理学社会学の方面より根本的に文学の活動力を論じるが主意なれば、学生諸子に向って講ずべきほど体を具せず。

百年以上も謎・不自然とされてきた先生の苦悩・罪悪感・自殺の原因も、当時の西洋の心理学・精神医学・性科学で研究されていたものです。(→関連記事

膨大な西洋の知を吸収してoriginalかつindependentな作品へと昇華させた天才・夏目漱石に比べて、弟子・小宮豊隆をはじめとする批評家たちの知的レベルがあまりにも低かったことが、『こころ』がピント外れな解釈をされ続けてきた根本原因です。

夏目漱石 模倣と独立

西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。……日本が西洋の前に出ると茲処に達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来ても宜しい。また来るべきはずである。

当ブログでは、様々な角度から『こころ』の真相を解き明かしています。詳しくは下の記事一覧を参照してください。真相は[ネタバレあり]カテゴリの記事にあります。

 

オー・ヘンリー『心と手』

『こころ』を読み解く例題としてお勧めするのが、オー・ヘンリーの『心と手』です。数分で読み終わる短編なので、まずは一読してください。

心と手 - オー・ヘンリー :: Egoistic Romanticist

ラストに、ある「一点」に気付いていた乗客Aと、気付いていなかった乗客Bの二人が登場します。同じ内容を見聞きしていた二人ですが、Bは二人の男の話を言葉通りに受け取っていたのに対して、Aは言葉の裏側に隠された真相を見抜きます。

『こころ』の読者の大半も、乗客Bと同様、重要なことを見逃しています。勘が鋭い乗客Aのように、作中には明示されていない「一点」を見抜いてください。

[下・五十二]

私はただ妻の記憶に暗黒一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。

[下・五十四]

「私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。

 

誤った解釈に注意

『こころ』には定説の他にも、様々な解釈が出回っています。例えば、

  • 私は先生の自叙伝(遺書)を世間に公開する。
  • 私と先生の妻(静)は、先生の生前に密かに交流していた。
  • 先生の死後、私と静の間に子供が生まれている。 (小森陽一石原千秋秦恒平らが唱えた荒唐無稽な説)
  • お嬢さん(静)はすべてを知りつつ先生とKを操っていた「策略家」である。
  • Kには「存在しない」の意味がある。
  • Kは本当は先生が好きだったが、先生がお嬢さんと婚約したために悲観して自殺した。
  • Kの自殺は、先生の卑怯な言動に対する「抗議の自殺」である。
  • 性行為の描写がある(→関連記事)。
  • 先生のモデルは漱石自身である。
  • Kは漱石の本名「金之助」を意味している。

などがありますが、これらはすべて誤りです。惑わされないように。

余談ですが、「漱石は"I love you"を『月が綺麗ですね』と訳した」もデマです。デマを拡散しないようにしてください。

togetter.com

note.chiebukuro.yahoo.co.jp

こちらはデマを拡散する残念なツィート。