この記事は、タイトルの通り、夏目漱石の『こころ』を真剣に読解しようとする、あるいは、小説の読解力を高めようとする真面目な人(特に高校生)に向けたアドバイスです。

『こころ』を読む意味

人間の精神活動には、論理と感情の両面があります(英語ではそれぞれmindとheart)。論理と感情に対する理解を深めることで、社会的動物である人間同士のコミュニケーションを円滑にできるようにすることが、学校で現代文を学ぶ重要な目的です。論理を正確に理解するための教材が評論・論説文で、感情を理解するための教材が小説です。

小説が評論に比べて難しい点は、評論は内容を論理に従って「文字通り」に理解すればよいのに対して、小説は必ずしも「文字通り」に理解してはいけないところです。たとえば、「元気ですか?」という問いに「元気です」と答える人が、本当に自分を元気と思っているとは限りません。元気ではないが、相手を心配させないため、あるいは弱みを見せたくないために「元気です」と言っている可能性もあるからです。その人物のキャラクターや置かれている状況、相手との関係などによって、同じ言葉でもまったく反対の意味になることは珍しくありません。

また、自分自身の本当の感情を自覚していないこともあります。漱石は、人間の意識には見えない領域=無意識・深層心理が存在することに関心を持っていましたが、この人間心理のduality(二重性、二面性)が『こころ』の主題と言えます。

吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下はく、その線の上はらかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしても至極と思われるが、肉体と共に活動する的現象に斯様の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。

人間の複雑な感情(heart)を理解することは、奥が深く難しいのです。

『こころ』が小説の教材としてふさわしい理由は、複雑な人間心理を存分に描き切っていることにあります。漱石自身による広告文は、そのことを表しています。

自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。

『こころ』の7年前の講演では、作品中で、登場人物の性格を微妙なところまで描いていることを語っています。

画を専門になさる、あなた方の方から云うと、同じ白色を出すのに白紙の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力がないと視覚の発達した今日において充分理想通りの色を表現する事ができないと同様の意義で、――文学者の方でも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男でも、その間に微妙な区別を認め得るくらいな眼光がないと、人を視る力の発達した今日においては、性格を描写したとは申されないのであります。したがって人間をかく文学者は、単に文学者ではならん、要するに人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんのです。

『こころ』はその題名と広告文が示す通り、人間の心理・感情・性格・heartを微に入り細を穿って描いた作品です(倫理小説ではなく心理小説)。だから、小説の教材として適切なのです。

『こころ』の読み方

『こころ』は人間心理を理解する格好の教材ではありますが、高校生にとっては難解すぎる小説でもあります。専門家も未だに理解できていないため、高校生が一回読んだだけで理解することはほぼ不可能です(読解には当時の西洋の文学、哲学、心理学、社会学、性科学等の知識が不可欠)。最低でも三回は読むことを覚悟してください。自分がどこを読み誤っていたのか・読み落としていたのかを次に読み返す際に検証することが、読解力を高めることにつながります。

順序は、

  1. 一回目は、前提知識を仕入れず、白紙に近い状態で読む。読み終わったら、登場人物の行動の背景にある心理を分析する。
  2. 読解の手掛かりとなる問題」と「冒頭と結末から四つの問題」を読んで解答を考えてから、二回目を読む。[下 先生と遺書]は「高校教科書掲載部分に隠された秘密を徹底解読」と併読する。
  3. 真相]を読んでから三回目を読む。

を推奨します。『こころ』が極めて現代的なテーマを扱っていることと、100年以上前にそのような小説を書いた夏目漱石の先進性と偉大さが分かるでしょう。

読む際の注意点

近年、小説の読解に関して好ましくない風潮があります。

一つは、「読み方に正解はない/自分の思うように読めばよい」というものです。もちろん、小説を読んで「何を感じるか」は読者の自由ですが、「何が書かれているか」は読者が勝手に決めてよいものではありません。

確かに、作者が細かい注釈を残していない限り、どの解釈が正しいかを100%断定することはできませんが、これは「正解がない」ことではありません。この考え方が不適切であることは、犯罪捜査にたとえると分かります。

決定的な証拠や目撃証言がないからといって、「誰が犯人か分からない」「誰を犯人にしてもよい」ことにはなりません。捜査当局は様々な証拠を積み重ねることで真犯人を高い確度で推定するわけです。小説の読解も同じで、「決定的証拠=作者の説明」がなくても、作品中に残された様々な「証拠」から、何が描かれているかを高い確度で推測することは十分可能であり、それが小説を読むということです。「自分の思うように読めばよい」というのは、「警察・検察は証拠なしに適当な誰かを犯人に仕立て上げても構わない」と同じ暴論です。

もう一つは、「共感」に頼る読み方です。「共感できる」ことが、小説やドラマ、映画がヒットする重要ファクターになってきています。娯楽作品を楽しむのであれば問題ありませんが、その読み方をあらゆる作品に適用するのは大きな間違いです。

共感は、登場人物の心理と自分の心理が一体化することで生まれますが、それが可能なのは、登場人物と自分が似通ったキャラクターの場合に限られます。自分とまったく異なるキャラクターに共感したとすれば、それはその人物を誤って理解したことに他なりません。

そもそも小説を「学ぶ」主な目的は、自分とは異なる他人(特に、共感できない異質な人)の心理を理解することで、共感力やソーシャル・スキルを向上させることです。そのためには、登場人物の発言、行動、状況等を総合して心理を分析・推理することが必要です。共感やフィーリングではなく、心理分析官のように分析・推理によって登場人物の心理を「読む」ことが、小説を読むことだということを肝に銘じてください。

読解例①

定番解釈が見落としている細部に着目します。先生がお嬢さんとの結婚を決断する場面です。

[下・四十四]

私は私にも最後の決断が必要だというの耳で聞きました。私はすぐそのに応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。

ここで重要なのが、「最後の」です。英語の"the last ~"には「一番後回し/最もやりたくない」の意味がありますが、先生の深層心理では、結婚申込みは「最もやりたくない」ことでした(だから、「勇気」や「覚悟」が必要)。実際、Kを下宿に連れてくる前から先送りを続けています。

[下・十八]

私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時、私はなるべく緩くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。

[下・三十四]

奥さんにお嬢さんを呉れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。

肝心のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました

お嬢さんとの結婚がなぜ「最もやりたくない」ことなのか。下の<予行演習>と併せて考えれば、先生の無意識に潜んでいた本当の心()が読み解けます。

読解例②

回想録を執筆している私に子供がいるという解釈があります。その決定的根拠とされるのが、下の部分です。

[上・八]

「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いもののように考えていた。

「その時には子供がいなかった→今は子供がいる」という解釈ですが、これは論理の飛躍です。「その時に子供がいなかった&今も子供がいない」も成り立つからです。

似た例で考えて見ましょう。ある年配の男性が若い頃を次のように回想しているとします。

貧しかったその時の私は、彼女に結婚を申し込めなかった。

この一文だけから「現在の私は裕福になっている」と判断できないことは明らかです。貧しい現在の私が、同じく貧しかった過去を回想している可能性を否定できません。

「子供を持った事のない」は、その時に「何の同情も起らなかった」 理由の説明であり、現在の子供の有無とは無関係です。回想録の執筆時(推定年齢28歳前後)に子供がいる根拠にはなりません。

このようないい加減な読解に騙されないように注意してください。

参考

読解の参考になる情報を四つ提示しておきます(下に関連記事あり)。

  • 教科書に載っているのは[下]の一部だが、冒頭部分に作品を読み解くためのヒントがある。
  • 冒頭で「私」が「先生」と知り合ったのは、旧制高校2年と3年の間の夏休み(当時の旧制高校と大学は9月開始)。現代では大学2年の夏休みに対応するので年齢は19歳か20歳。先生は12歳年上なので31歳か32歳。
  • 「恋愛と性」が重要なモチーフ。恋愛の微妙な心理(こころ)を読み取ることが求められる。
  • イギリスの有名な小説をヒントにしている可能性が高い(モチーフと構成が酷似している)。

『こころ』 が高校生にとって難解なのは、「恋愛」を理解するだけの人生経験を積んでいないためですが、有利な点も一つあります。それは、『こころ』で描かれている恋愛は、現代の高校生にとっては珍しくないタイプの恋愛であることです。先入観にとらわれずに読めば、大筋を掴むことは十分可能です。まずは<予行演習>にトライしてください。

<予行演習>

A,B,Cの三人がいます。AはB及びCに対してどのような感情を抱いているでしょうか。

  • AはBとルームシェアすることを希望する(が、断られる)。
  • Aは嫌がるBを無理やり二人旅に連れ出す。
  • AはBがCのことを想っているのではないかと疑うと、落ち着いていられなくなり、わめき散らしたり、暴力的に脅したりする。
  • ゲーム中、AはCがBに味方することに怒りを感じるが、BがCに無関心なため、何とか怒りを抑えられる。
  • AはBがCに恋していることを知ると、Bを永久に失ったかのような激しい衝撃を受ける。

簡単なので解答は省略します。

予行演習が済んだら、『こころ』が恋愛悲劇であることをヒントに、読解にチャレンジしてください。三回読み終わった時には、小説の読解力は大きく向上しているでしょう。

さらに向上心がある人は、学校の授業で、このブログの解釈を示してみるのもよいでしょう(ただし、十分に理解した上で)。一流の教師であれば、この解釈は当然知っているはずなので、議論が深められるはずです。ただし、二流以下の教師だと、論破されると怒り出す可能性があるので、十分注意してください。どうするかは読者にお任せします。

追記

2019年3月24日の日本経済新聞に、数学者・AI研究者の新井紀子が「エリート男子の高校国語」と題する小論を書いていますが、問題がある内容です。 

多くの読者には、夏目漱石の「こころ」、森鴎外の「舞姫」、中島敦の「山月記」を高校国語で学んだ記憶があるだろう。出身校も年代も違うのに、なぜ誰もがこの3作品を読んだのか。理由は明白。ほぼすべての高校国語の教科書に掲載されてきたからだ。

この3作品には興味深い特徴がある。どれも「エリート男子の苦悩と挫折の物語」だということである。

エリート男子に尽くして妊娠した揚げ句に捨てられた踊り子(舞姫)や、詩人として名声を獲得したいという野心と己の実力との乖離から発狂した揚げ句、虎になった主人公の陰で貧窮する妻(山月記)に、女子生徒が共感したりロールモデルを見出したりすることは難しいだろう。

今回の学習指導要領改訂を機会に、たとえば、作者も主人公も男女半々等、よりダイバーシティに配慮した多様な作品を取り上げることが望まれる。

読む際の注意点」に書いたように、小説を学ぶ目的の一つは自分とは異なる他人(特に、共感できない異質な人)の心理を理解することです。最近では、SNSで共感できる人とばかりコミュニケーションすることで、思想・意見がどんどん偏って先鋭化していく危険性が指摘されていますが、その偏向を修正するためにも、登場人物に共感できない作品を学ぶ意義があります。共感できる「私たちの物語り」が読みたいのであれば、自由に読めばよいだけです。

定番作品が「男性作家の手による」ものに偏っていることが気に食わないのは理解できますが、これらの古典が書かれた時期には女性作家が少なかったのだから仕方ありません。現代小説では女性作家も多数採用されているにもかかわらず、ダイバーシティを優先して漱石を鴎外を排除するのであれば、シェイクスピアやモーツァルトやミケランジェロたちを定番から外すことも正当化されてしまいますが、それでもよいのでしょうか。芸術は作者のアイデンティティ(属性)ではなく、あくまでも作品の質で評価すべきでしょう。

ここまでわかっているのですが…。