先生が人間観を語るこの一節は、『こころ』の主題と関係あるものとして重視されています。

[上・二十八]

田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

善人悪人は別々の存在ではなく、一人の人間の中に善人悪人がいる、すなわち、人間には二面性があるという洞察ですが、これと同じ内容が、『こころ』の約30年前の有名なイギリスの小説にも描かれています。(敢えて作品名は示しません。調べてください。)

… I thus drew steadily nearer to that truth, … that man is not truly one, but truly two.

It was on the moral side, and in my own person, that I learned to recognise the thorough and primitive duality of man; …

『こころ』は漱石の純粋なオリジナルではなく、ほぼ確実に、このイギリスの小説などからヒントを得たものです。誰でもタイトルは聞いたことがある小説で、日本語訳も出版されているので、精神的に向上心がある人は探して読み比べてください。構成が酷似していることにも気付くでしょう。

繰り返して申しますが、イミテーションは決して悪いとは私は思っておらない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。画かきの人の絵などについて言っても、そう新しい絵ばかり描けるものではない。ゴーガンという人は仏蘭西フランスの人ですが、野蛮人の妙な絵を描きます。仏蘭西に生れたけれども野蛮地に這入って行って、あれだけの絵を描いたのも、前に仏蘭西におった時に色々の絵を見ているから、野蛮地に這入ってからあれだけの絵を描くことが出来たのである。いくらオリヂナルの人でも前に外の絵を見ておらなかったならば、あれだけのヒントを得ることは出来なかったと思う。

(夏目漱石という人は日本の人ですが、前にイギリスにおった時に色々の小説を読んでいるから、日本に帰ってからあれだけの小説を書くことが出来たのである。)

人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。

『こころ』の主題と関係ありそうな二面性(duality)に注意すると、 様々な二項対立が描かれていることに気付きます。

  • 精神肉体[下・二十三]
  • [下・二十三]
  • 神聖性欲[下・十四]
  • 神聖罪悪[上・十三]
  • 異性同性[上・十三]
  • 高尚な愛の理論家迂遠な愛の実際家[下・三十四]
  • 美しい恋愛恐ろしい悲劇[上・十二]
  • 純白―暗黒[下・五十二]
  • 善人―悪人[上・二十八]
  • 考えた―やった[上・十四]
  • 冷やかな頭―熱した舌[下・八]
  • 頭―胸[上・二十三]
  • 儒者―切支丹[上・二十三]
  • 私の父親―先生
  • 兄―私
  • 都会―田舎
  • 東京の先生―鎌倉の先生

最も重要なのが、先生の恋愛です。お嬢さんへの(宗教的な)愛の半面裏面とは一体何でしょうか。

[上・十二]

私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。

[下・三十四]

若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬に帰していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。

精神肉体

神聖性欲

異性同性

愛の理論愛の実際

神聖罪悪

恋愛悲劇

これらのduality(二重性、二面性、二元性)こそ『こころ』の主題です。大胆かつ巧妙に描かれている先生と私の「裏面」を読み取ってください。

自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。

《発展学習》

結末で唐突に語られる「明治の精神」も、二面性(duality)と関係します。

[下・五十五]

その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。

[下・五十六]

私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。

現代日本の開化』や『文芸と道徳』をヒントに、明治時代の日本の「二面性」について考察してください。

さて自然の事実をそのままに申せば、たといいかな忠臣でも孝子でも貞女でも、一方から云えばそれぞれ相当の美徳を具えているのは無論であるがこれと同時に一方ではずいぶんいかがわしい欠点をもっている。すなわちでありでありであると共に、不忠でもあり不孝でも不貞でもあると云う事であります。……有体に白状すれば私は善人でもあり悪人でも――悪人と云うのは自分ながら少々ひどいようだが、まず善悪とも多少混った人間なる一種の代物で、砂もつき泥もつき汚ない中に金と云うものが有るか無いかぐらいに含まれているくらいのところだろうと思う。私がこういう事を平気で諸君の前で述べて、それであなた方は笑って聴いているくらいなのだから、今の人は昔に比べるとよほど倫理上の意見についても寛大になっている事が分ります。……これほど世の中は穏かになって来たのです。倫理観の程度が低くなって来たのです。だんだん住みやすい世の中になって御互に仕合でしょう。

……私は明治維新のちょうど前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のような怪しげなものでありますが、私らのような年輩の過去に比べると、今の若い人はよほど自由が利いているように見えます。また社会がそれだけの自由を許しているように見えます。……私は昔と今と比べてどっちが善いとか悪いとかいうつもりではない、ただこれだけの区別があると申したいのであります。また過去四十何年間の道徳の傾向は明かにこういう方向に流れつつあるという事実を御認めにならん事を希望するのであります。