『こころ』を巡る最大級の不思議は、「先生は自分のエゴイスティックな言動がKを自殺に追い込んだことに罪の意識を抱いて自分も自殺してしまう」という明らかな誤読が、百年以上も定説とされていることです。

自分と親友との間で1人の女性をめぐって葛藤を演じたっていう、演じて親友を出し抜いてしまったっていう、そういう全く私的なことを忘れかねて、それでそれが生涯の罪の意識になって、それで自殺したっていうこと。

大まかなあらすじとしては、先生が卑怯な振る舞いをして女をゲットしたせいで友人Kが自殺。その罪悪感に悩み続けていた先生がいよいよ自殺するお話。

この定説が誤りと断定できるのは、先生を自殺に追い込んだのが「不可思議な恐ろしい力」であることが、遺書(自叙伝)に明記されているためです。

[下・五十五]

「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。

いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。

これは「恐ろしい影」のことでもあります。「その時分」とは、Kの自殺から数年後と推定されます。

[下・五十四]

私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした

  • 驚きました/ぞっとしました
  • 胸の底に生れた時から潜んでいる
  • そうした心持
  • 頭がどうかしたのではなかろうか
  • 医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした

という記述は、「」「」が当時は異常心理・精神病理とされていた生まれつきの資質であることを示唆しています(だからタイトルが「心/こころ」)。時期的にも「Kを出し抜いたことへの罪の意識」でないことは明らかです。

そもそも、静(お嬢さん→妻)が好きで結婚したかったのはKではなく先生なので、「お嬢さんをKに取られるかもしれないという不安から、Kを出し抜いて結婚の約束を取り付けた」ことが、静に隠し通さなければならない秘密になるはずがありません。先生も、事実を打ち明ければ、「妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いない」と考えています。

[下・五十二]

私は一層思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付けるのです。私を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分の私は妻に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。

先生のKに対する言動は客観的には義理(道理)を外れているものの、静にとっては「夫は親友よりも自分を優先した」証拠なので、むしろ嬉しく思うはずなのです。静にとっての黒歴史にはなり得ません。(静がKに好意を持っていたと誤読しないように。結婚前も結婚後も先生一筋で、Kのことは眼中にありません。また、静はKが自分に恋愛感情を抱いていたことに全く気付いていません。)

[下・五十四]

しかし妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。

従って、先生が静に隠し通した自殺の原因でもある「秘密」が、「Kを出し抜いて結婚の約束を取り付けたこと/そのことへの罪悪感」ではないことは明らかです。

先生が「秘密」を隠していることは静も感じ取っています。(「静を見る→Kが目に浮かぶ→静を遠ざける」が意味するところに注意)

[下・五十二]

私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支えないのですが、時によると、妻の癇も高じて来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう怨言も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。

[上・十九]

自分と夫の間には何の蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開けて見極めようとすると、やはり何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。

何か」「隠していらっしゃる事」が「Kを出し抜いて結婚の約束を取り付けたこと/そのことへの罪悪感」では先生の言葉の意味が通りませんが、静を遠ざけてしまう何らかの資質だとすると意味が通ります。

[上・九]

「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

「どんなに先生を誤解なさるんですか」

先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。

妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない

先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。

[上・十八]

「じゃ先生がそう変って行かれる源因がちゃんと解るべきはずですがね」

「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません

「先生は何とおっしゃるんですか」

「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」

「私はとうとう辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」

こういう性質になった」は、それまでは「自分の胸の底に生れた時から潜んでい」た資質が顕在化した(閃いた)ことを意味します。その資質=欠点こそ、先生が静には知らせたくない=静にとっては知らない方が幸せな「秘密」です。

[下・五十六]

私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

一方で、先生は私だけに「過去を物語りたい」と記しています。先生の秘密を静は受け入れられないが、私は受け入れられると判断しているからです。「ただあなただけ」は、先生と私がその他一般の人々とは異なる特殊な人間であることを示唆しています。

[下・二]

私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。

私も「先生に対してだけ」と感じていました。お互いに相手を「オンリーワン」と認識していたことになります。

[上・四]

私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。

以上から、先生の自殺の原因は、当時は異常心理・精神病理とされていた生まれつきの資質であり、それは私にも共通することが読み取れます。私はその資質を自覚したことで、先生の遺書に秘められた内容を理解し、回想録を書き始めたのです。

[上・十二]

私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。

静との「美しい恋愛」に隠されていた先生の自殺の原因=秘密それとは一体何でしょうか。

[上・十三]

「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。

罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。

「なぜですか」

「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」

「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」

「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」

「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

「私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」

「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」

とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」

[下・十四]

私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。

先生は静も含めて女に性的欲求を感じないと告白していますが、一体誰に感じるのでしょうか

[下・十四]

私はもとより人間としてを離れる事のできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私のは、全くの臭いを帯びていませんでした

[上・十]

妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。

[上・八]

「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。

奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。

〈表〉〈裏〉

異性同性

神聖罪悪

神聖性欲

愛の高い端愛の低い端

 美しい恋愛恐ろしい悲劇

これほど簡単なことが未だに理解されていないのは不思議です。これだけ大量のヒントが示されても分からない人は、余程頭が鈍いか、偏見の塊なのでしょう。(⇒コメント欄を参照)

[上・三十一]

頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」

ヒントは[問題]、解答は[真相]カテゴリの記事にあります。Kの自殺については[Kの自殺]カテゴリで分析しています。

《発展学習》

人間の根源的欲求である性欲は、宗教との摩擦を引き起こすのが一般的です。有島武郎も聖書(キリスト教)と性欲の葛藤に苦しみ、結局は棄教します。

人には性の要求と生の疑問とに、圧倒される荷を負わされる青年と云う時期があります。私の心の中では聖書と性慾とが激しい争闘をしました。

Kも、宗教心(→精進)とお嬢さんへの恋(←性欲)との葛藤が自殺の一因になりました。

[下・四十一]

Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。

しかし、先生は静への愛を「性欲とは無縁の宗教心に近いもの」と表現しています。宗教的な「悟り」に到達していなかった先生が、なぜ「女への性欲」とは無縁でいられたのでしょうか。その答えが「秘密」の正体です。