当ブログに寄せられた質問にお答えします。

私は先生を批判的に見るようになった、は論外だと書かれていますが「今更よそよそしい頭文字など使う気にはならない」(今手元に本がないのでうろ覚えですが)はどう解釈なされますか?

『こころ』の誤読の一つが「回想録を書く私は先生を批判的(あるいは批評的)に見ている」です。「距離を取って突き放している」とも言い換えられるでしょう。

その根拠とされているのが、下線部です。

[上・一]

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない

先生は遺書で

[下・十八]

奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。

[下・十九]

「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。 

と、自殺した友達を頭文字(イニシャル)で記しています。先生が使っている頭文字を「よそよそしい」「とても使う気にならない」と否定していることが、先生を批判的(批評的)に見ていることの根拠というわけです。

しかし、前後も含めて論理的に読めば、これが木を見て森を見ない誤読・妄想・珍解釈であることは明らかです。

先生がKという頭文字を使ったのは、それが最も自然だからです。先生とKは幼馴染なので、下の名前(ファーストネーム)で呼び合っていたと考えられます。その人物について本名を明かさずに第三者に語るのであれば、現代でもイニシャルを使うのが自然です。

しかし、先生にとっての自然は、「その人を常に先生と呼んでいた」私にとっては自然ではありません。「よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない」はそのことを記しただけであり、先生批判の意味が込められているわけではありません。わざわざこのように書いたのは、私は先生の遺書の内容を熟知しているので、回想録を書き始めた時点で先生が頭文字を使っていたことが頭に浮かんだためです。

私が依然として先生に敬愛の念を持ち続けていることは、

私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。

という一文からも読み取れます。どう読んでも批判的・批評的スタンスを示したものではありません。

「深い読み」を装ったトンデモ解釈に惑わされないようにしてください。