登場人物の理解を深めるために、年齢を推定します(簡単のため、4月生まれの満年齢とする)。二つの歴史上の出来事と当時の学制(小6・中5・高3・大3)が手掛かりになります。学制については文部科学省資料の第3図と第4図を参照してください。

大雑把にはこのような対応になります。

(旧)中学→(現)中高一貫校

(旧)高校→(現)大学教養課程

(旧)大学→(現)大学専門課程

先生・K・私は、中学卒業後、進学のために故郷を離れて上京しています(第一高等学校東京帝国大学文科大学)。当時の高等学校と大学は欧米と同じ9月入学で、文科大学は現在の文学部に相当します。

先生と私はストレートに進学・卒業していると読み取れるので、帝国大学卒業年齢は24歳になります。この推定が現実的であることは、同時代の実在の帝大卒業者によって裏付けられます。

先生が上京する前に両親が腸チフスで死去しています。既に東京行きが決まっていたことから中学時代の可能性が高く、5年生の時だとすると17歳、日常生活で用いられた数え年では18歳か19歳なので、遺書の「私が両親を亡くしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした」と整合します。

[下・三]

母はただ叔父に万事を頼んでいました。そこに居合せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。

中学卒業後、新潟から上京して第一高等学校入学(18歳)→1年と2年の間の夏休みに叔父に結婚を勧められ(19歳)→2年と3年の間の夏休みには叔父の娘の従妹との結婚を勧められ(20歳)→高校と大学の間の夏休みに故郷を捨て(21歳)→大学に進学して間もなく軍人の未亡人(奥さん)の下宿に移ります(21歳)。奥さんは「日清戦争の時か何かに死んだ」夫の服喪期間13ヵ月が明けてから市ヶ谷から小石川に転居した可能性が高く、さらにその約1年後なので、この時は日清戦争(1894年7月~95年3月)から2年強が経過した1897年頃と推定されます。したがって、先生とKの生年は1876(明治9)年頃と推定されます。

[下・十]

それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩などがあって、邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。

Kは2年生の半ばに下宿に来て、約1年後に自殺します(享年23歳)。

静(お嬢さん→先生の妻)は先生とKの大学2年修了の翌年3月に高等女学校を卒業しています。学制を小6・高女5とすると卒業年齢は17歳になるので、生年は1882(明治15)年頃、先生との年齢差は6歳と推定されます。先生と静の出会いは、それぞれ21歳と15歳の時になります。現代では大学3年生と中学3年生です。

[下・二十七]

もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼っている頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。

我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの唯一の誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。

この推定は、Kが下宿に来る前に静が婚姻年齢(当時の民法では15歳以上)になっていたことと整合します。

[下・十八]

そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見えました。極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより外に子供がないのも、容易に手離したがらない源因になっていました。嫁にやるか、聟を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。 

 二人が結婚したのは、先生が大学を7月に「卒業して半年も経たないうち」なので、出会いから3年後の先生24歳、静18歳の時と推定されます。当時のおおよその平均初婚年齢は男26歳、女22歳なので、二人とも当時としても早婚だったことになります。(参考:2014年は男31.1歳、女29.4歳)

先生の結婚生活は、一年経ってもKを忘れられない→(Kを忘れるために)書物に溺れようとする→酒に溺れようとする→義母が腎臓病に罹る→義母死亡→胸に恐ろしい影が閃く、と展開します。恐ろしい影が閃いたのは、結婚から数年後かつ鎌倉で私と知り合う数年前と思われるので、28歳前後になります。

[下・五十四]

私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。

私の卒業年は明治天皇が崩御した1912年なので、生年は1888(明治21)年と推定されます。また、

[上・一]

私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。[…]友達はかねてから国元にいる親たちに勧まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた

[上・十一]

その時の私はすでに大学生であった。始めて先生の宅へ来た頃から見るとずっと成人した気でいた。

という記述から、鎌倉で先生と出会ったのは高校時代、おそらく2年と3年の間の夏休みと推定されます(当時は9月から新学年開始)。

以上より、最初の出会い時の推定年齢は私20歳・先生32歳・静26歳、先生の自殺時は私24歳・先生36歳・静30歳となります。先生は私より12歳年上、静は6歳年上です。静と私がほぼ同年齢という説(秦恒平)や、先生の自殺がKの自殺から20数年後(古井由吉、安藤宏)、あるいは30数年後(出口汪)という説がありますが、誤りです(→関連記事)。秦の説は、静が私より「一時代前」であることから成り立ちません。(リンク先の秦恒平の講演録は、凄まじい誤読・珍解釈・二次創作の集大成です。

[上・十二]

先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。

なお、先生と私が一回り違い(干支が同じ)であることには、二人のキャラクターが類似しているとの意味が込められているのかもしれません。

先生が乃木大将の自殺に衝撃を受けた理由の一つは、乃木が苦しんだ年月と自分の人生がほぼ同じだったためですが、これは先生の苦悩と自殺の原因が生まれつきの資質だったことを示唆します。

[下・五十六]

私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

その資質(恐ろしい影、不可思議な恐ろしい力)のヒントは冒頭の鎌倉のシーンに描かれています。

20歳の若者が、海水浴場で猿股一つの西洋人(白人男性)と一緒の32歳の男性を一目見て心を奪われ、猛然と後を追い掛けるところから、この物語は始まります(→関連記事)。

[上・二]

その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。

先生が昨日のように騒がしい浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標に抜手を切った。

2015年時点における20歳と32歳の男性の一例を挙げると、私=羽生結弦(1994年12月生)、先生=エフゲニー・プルシェンコ(1982年11月生)です。

 

推定に基づく年譜

先生

  • 1876年:新潟県で資産家(地主?)の長男として誕生(→関連記事
  • 1883年:小学校入学
  • 1889年:中学校入学(在学中に両親死亡)
  • 1894年:新潟から上京して第一高等学校入学
  • 1897年:故郷を捨てる,東京帝国大学文科大学入学,奥さんの下宿に移る
  • 1899年:初春頃にKを下宿に連れてくる,夏休みにKと房州旅行
  • 1900年:Kが自殺,転居,大学卒業,静と結婚
  • 1904年:この頃から胸に「恐ろしい影」が閃くようになる
  • 1908年:鎌倉で私と知り合う
  • 1912年:自殺

 

  • 1882年:東京で軍人の長女として誕生
  • 1889年:小学校入学
  • 1895年:この頃に父親死亡,高等女学校入学
  • 1896年:この頃に市ヶ谷から小石川に転居
  • 1897年:先生が下宿人として移ってくる
  • 1900年:高女卒業,転居,先生と結婚
  • 1904年:この頃に母親死亡
  • 1912年:夫が自殺

 

  • 1876年:新潟県で浄土真宗の寺の次男として誕生(→関連記事
  • 1883年:小学校入学
  • 1889年:中学校入学(在学中に医者の養子になる)
  • 1894年:新潟から上京して第一高等学校入学
  • 1897年:東京帝国大学文科大学入学,実家に復籍・勘当される
  • 1899年:初春頃に奥さんの下宿に移る,夏休みに先生と房州旅行
  • 1900年:自殺

 

  • 1888年:資産家(地主?)の次男として誕生(母はお光)
  • 1895年:小学校入学
  • 1901年:中学校入学
  • 1906年:上京して第一高等学校入学
  • 1908年:2年と3年の間の夏休みに鎌倉で先生と知り合う
  • 1909年:東京帝国大学文科大学入学
  • 1912年:大学卒業,父親死亡?
  • 1916年:この頃に回想録を執筆?(→関連記事

 

私の出身地は?

文中の手掛かりから推測してみます。

椎茸の産地であること(当時の主な産地は静岡県、大分県、宮崎県)

[上・二十二]

「こんど東京へ行くときには椎茸でも持って行ってお上げ」

「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」

九州からは遠いこと

[上・二十二]

私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。

自宅の最寄り駅から東京行きの汽車に乗れること(俥=人力車)

[中・十八]

私はすぐ俥を停車場へ急がせた。

そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。

2日あれば東京まで往復できることから、

[中・十八]

私は医者から父がもう二、三日保つだろうか、そこのところを判然聞こうとした。注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。

静岡県の東海道本線沿い(三島近辺?)ではないかと推測できます。

漱石は『こころ』の執筆の4年前(1910年)に胃潰瘍の療養のために伊豆の修善寺に滞在していましたが、伊豆は古くからの椎茸の産地です。

 

東京帝国大学での学科

東京大学文学部の資料によると、1897年の東京帝国大学文科大学には哲学科、国文学科、漢学科、史学科、国史科、博言学科、英文学科、独逸ドイツ文学科、仏蘭西フランス文学科の9学科が置かれていました。

1910年には第一哲学科、第二史学科、第三文学科に再編され、第一哲学科には哲学、支那哲学、印度哲学、心理学、倫理学、宗教学、美学、教育学、社会学の9専修学科が置かれました。

Kは哲学科を選んだ可能性が高く、先生も同じ学科、

[下・十九]

Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。

[上・二十]

「Kと私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。

[下・二十六]

「Kと私は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。

私も先生と同じ学科と考えられるので、

[上・二十五]

私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。

三人は哲学科に進んだと推測されます。

専攻はKが哲学か宗教学、先生と私は倫理学か心理学か社会学といったところでしょうか。

 

房州旅行

作品中の先生とKと同じく、漱石も学生時代に房州旅行をしています。漱石が自分の経験を参考にしたことは間違いありませんが、それは先生のモデルが漱石であることを意味しないことに留意してください。

漱石の夏やすみ―房総紀行『木屑録』
高島 俊男
朔北社
2000-02-01

 

 

注意

現実世界で漱石が1914(大正3)年に朝日新聞に『こころ』を連載したことを、小説の中の世界で「私は1914年に回想録を執筆して先生の遺書と一緒に世間に公表した」と解釈してしまう人がいます。

結末に「あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまっておいて下さい」と出てきます。それなのに、なぜこの手記は書かれ、「先生」の遺書が公開されることになったのか。

これは現実とフィクションを混同する初歩的な誤りです。日記と同様、回想録(手記)を「書く」ことは「公開する」ことを意味しません。そもそも、新聞や雑誌が数年前に自殺した「まるで世間に名前を知られていない人」(上・十一)の長文の遺書を掲載するとは考えられない上、先生の「秘密」の性質上、私が遺書を世間に公開することもあり得ません。私が先生の「秘密=悲劇=深い理由」を暴露していないことは、次の引用部分からも明らかです。

[上・十二]

先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。

私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。

「私は先生の依頼に従わず、遺書を公開した」と誤読した上で、「私は先生を批判的に見るようになっている」「静は私と再婚して子を産んだ」などと妄想を展開する批評家が見受けられますが、論外なので信用しないように。

 

余談

1895年に西園寺公望が日清戦争で得た賠償金をもとに、第三高等学校を帝国大学に昇格させることを提案。1897年に京都帝国大学が創設され、東京の帝国大学は東京帝国大学に改称されました。先生とKはこの年に東京帝国大学に入学したことになります。