『こころ』は先生の自殺の理由を探る心理ミステリですが、その決定的なヒントは小説の終盤にあります。

最後の章の最後の段落で、先生には妻の静には知らせたくない「秘密」があったことが語られます。

[下・五十六]

私は私の過去を善悪ともにひとの参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

その「秘密」のヒントはその二つ前の章にあります。男と女が一つになることを妨げる何かです。

[下・五十四]

妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。

私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。

私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。

「暗黒に見えた」とは「存在を感じるが具体的にはわからない」という意味です。

[上・十九]

自分と夫の間には何のわだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開けて見極めようとすると、やはり何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。

妻には「こういう性質」に関する知識がなかったので、わからなかったのです(もっとも、現代人であれば誰でも知っていることです)

[上・十八]

「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」

「先生は何とおっしゃるんですか」

「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」 

Kの自殺とお嬢さんとの結婚から数年後(おそらく30歳手前)に目覚めた生まれつきの性質である「一点」とは何なのかを推理してください。それがわかると、定番解釈とは全く異なるストーリーが見えてきます。

 

豆知識

漱石は大量に読み込んだ西洋文学(特に英米)を自分の小説のヒントにしています。一例を挙げると、下線部のKの言葉は、おそらく『ハムレット』の"To be, or not to be: that is the question."から来ています。

[下・四十]

彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。

『こころ』が、漱石が高く評価していた英作家の超有名な作品をヒントにしていることもほぼ確実です。その作品が何かも考えてください。