瀬川雅峰著『辰巳センセイの文学教室〈下〉 「こころ」を縛る鎖』では、『こころ』の解釈に秦恒平の説が採用されています。


「先生も、Kも、お嬢さんを幸せにできなかった。しかし、思いは、二人の死で断たれることなく『私』に託された――数々の『書かれていないことが逆説的に伏線となっていることに気付いたとき、初めてはっきり見えてくる「希望の物語」――それこそ、最も核心に迫った『こころ』の読みだと俺は思う。もちろん名作ゆえに、様々な研究や読みがあるから、この解釈も、その一つだ。でも、全編を丁寧に読み解いたとき、最も説得力がある読みはこれだと俺は思うが、どうだったろう。本編をまた読み返して・・・・・・発見があったら、今度は君たちが俺に教えてくれ」

『こころ』の読解に際しては、秦恒平氏『湖の本~漱石「心」の問題』における考察を参考にさせていただきました。厚く御礼申し上げます。

小説の中の世界ではどのような解釈をしても構いませんが、秦の解釈を真に受けてしまう読者がいるかもしれないので、完全な誤読であることを指摘しておきます。 

年齢

秦の解釈は「私と静(先生の妻)はほぼ同い年」から発展させたもので、自殺時の年齢はこのように推定されています。

先生、自殺時の年齢(概算)

「私」   =26歳~27歳

「先生」  =36歳~37歳

「お嬢さん」=27歳~28歳 

しかし、私と静の年が離れていることは「先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人した」(上・十二)から明らかです。推定年齢は私24歳、静30歳、先生36歳です。

「えええ? お嬢さんが十三歳で、そのとき下宿してきた先生が二十三歳って・・・・・・ロリコン?」

この時の推定年齢は先生21歳、静15歳なのでロリコンにはなりません。ロリコンは第二次性徴前が対象です。

静が秦が推定するほど幼くなかったことは、先生が下宿に来てから約1年後(推定)に先生・奥さん・お嬢さんの三人で日本橋に買い物に行ったエピソードからもわかります。

[下・十七]

月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯からかわれました。いつ妻を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといって賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。

この級友の発言と奥さんの話から、静が結婚していてもおかしくない年齢だったことがわかります。当時の民法では婚姻開始年齢は15歳です。

[下・十八]

そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見えました。極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより外に子供がないのも、容易に手離したがらない源因になっていました。嫁にやるか、聟を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。

静本人も、自分が子供ではないと自覚していました。

[下・十三]

それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが解っていました。よく解るように振舞って見せる痕迹さえ明らかでした。

[下・十七]

お嬢さんは大層着飾っていました。地体が色の白いくせに、白粉を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。

『辰巳センセイの文学教室』では高校生が教師に恋していますが、静もほぼ同じ年齢だったことになります。

私の手記(上・下)

――先生の亡くなった今日になって

――先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。(中略)先生はそれを奥さんに隠して死んだ。

「問題は、この語りが誰に向けたものかだ。先生は亡くなっているし、奥さん・・・・・・お嬢さんへでもないのは文面でわかる。すると、これは『私』が、他の『読者』を想定して書いたことになる。あの壮絶な遺書を受け取って、たった一年半で、先生とのやりとりをメディアに公開した、という事実。これは、作品外・・・・・・『現実世界』と結ばれた伏線だ。さらに言えば、我々がリアルタイムではなく、百年経ってから読んでいるからこそ、気付けなくなっている」

この語りは誰に向けたものでもありません。冒頭の「これは世間を憚かる遠慮というよりも」を、私が世間に公表することを前提に手記を書き始めたとする解釈がありますが、森鷗外の『舞姫』にも「その名を斥さんは憚かりあれど、同郷人の中に事を好む人ありて」と、同様の表現があります。『舞姫』の太田豊太郎の手記が誰かに向けたものではないように、『こころ』の私の手記もメディアに公開するために書かれたものではありません。強いて言えば自分に向けたものです。

また、現実世界で乃木大将の殉死から約1年半後に朝日新聞紙上で『こころ』の連載が始まったことは、小説の中の世界で同時期に私が手記をメディアに公開したことを意味しません。「先生はまるで世間に名前を知られていない人であった」(上・十)ので、私の手記と先生の遺書を掲載する新聞や雑誌があったとは考えられません。可能性があるとすれば私が有名人になっている場合ですが、それを示す描写は一切ありません。

疑問①でお父さんを放置して、とっくに死んでいるはずの先生のために東京へ向かった・・・・・・この疑問の持ち方が間違いだったとしたら? 『私』が父親を放置してまで東京に急いだのは、残されたお嬢さんのため――彼女の気持ちを落ち着かせて、後追いをさせないための行動だったとしたら?」

先生からの手紙に「とくに死んでいるでしょう」とあるからといって、先生が「とっくに死んでいるはず」とは断定できません。「その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった」(中・十八)とあるように、東京に急いだのは先生の安否を確認するためで、先生の妻とは関係ありません。

先生の自殺

「疑問②の先生が自殺できた理由についても、結婚したばかりの九年前と、先生の自殺直前では、前提として変化したことはないか? それが、自殺を決断できた真の動機じゃないのか、と考えると・・・・・・」

自殺を決断するきっかけになったのは、乃木大将の殉死です。先生は「自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります」(下・五十四)と、希死念慮を抱え続けてましたが、乃木大将の殉死がヒントになって、自殺するよりも生き続ける方が苦しい(自殺する方が楽)だと気付いたのです。乃木大将が苦しんだ35年は先生の人生とほぼ重なります。

[下・五十六]

西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

もう一つの理由は、自分を継ぐ者=私の出現です。先生には遺伝子を継いでくれる子供はいませんが、代わりに「同性愛者の人生」という情報(ミーム)を継いでくれる人物(私)が現れたので、この世に未練がなくなったのです。「あなたの胸に新しい命が宿る」は、あなた(私)が自分(先生)を継いでくれるの意味です。

[下・二]

私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

秦の解釈は間違いだらけですが、そのことは『辰巳センセイの文学教室』の評価を下げるものではないので誤解のないように。ライト文芸小説としてはなかなかの出来です。